「あーぁ九割は【入り込まれ】てんなぁ面倒臭ぇ」










頭を片手で掻きながら、余っている手を私の胸ぐらに伸ばしたのは、―彼女。



冷え切っていた体を無理矢理上げられたものだから、バラバラになりそうになる。

しかし神経も凍ってしまっているようで、痛みは感じなかった。

難なく持ち上げられてしまうと、強制的に視線を合わせなくてはならない。

驚くほど自然な銀髪に、驚くほど澄んでいる緑の瞳。

染めているわけではなさそうだ、違和感が一切無い。

こんな色をした人など間近で見たことがないから、どう反応していいか分からない。

そしてこの口調、声を聞かなければ女だと察せ無い。

固定観念かと言われそうだが、大半の人だってそうだろう。



「てめぇが余計なこと言いかけるから俺の仕事が増えたんだ、謝れ」



相手からすれば、そんな私の表情はとてつもなく間抜けに見えたらしく。

苛立ちを伴っている声色に、一瞬体が震えた気がした。気がしただけで指一本ビクともしていない。

未だに机からの衝撃で唸る私の脳内など気遣うこともなく、そのまま彼女に揺さぶられた。

そう言えば最近、揺さぶられっ子症候群なんてものがあるそうじゃないか。

今の私はまさしく、その状態になりかけている。

何とか絞り出した声は、詰まり詰まりではあるもののどうにか彼女に伝わった。



「すっ、すいませ」



だが刹那に。


「よし、【幻覚】解けたみてぇだな」



胸ぐらから、圧迫が消えた。

もはや私のことなど考えてくれることは一切、ないようだ。

重力に抗えずに尻餅をついた私は、彼女の発言を危うく聞き損ねる。

けれどどうにか言葉を拾った所で、意味が分からない。



幻覚、とは何の話だ。



そこでふと辺りを見回してみる。あそこまで冷凍庫と化していた部屋がいつのまにか元通り。

そういえば体の力も完璧なまでに戻っている、信じられない。

驚愕に目を見開いて、次いでその視線が向かったのは先ほどまで物を投げつけていた窓。

厚き氷で覆われていたはずが、大きく開け放たれている。さっきまでは有り得なかったのに。

夜風の侵入をあっさり許してしまい、頬を撫でられた。



「え、ぁれ、何で」

「いいか、てめぇに拒否権なんて存在してねぇが、一応言っておくぞ?」



さっぱり状況に追いつけないが、とりあえず彼女は窓から侵入してきたようだ。

しかしここは二階、どうやって上がってきたのだろう。

よじ登れるような部分もないのに。

いろいろ考えたいのに、彼女はそれをさせてはくれないらしい。





「これから俺がやることに対して、一切の悲鳴を上げるな」





………――は?



突然押しつけられた命令形、あちらこちらへ放射していた思考が一つの束になる。

思わず彼女を凝視してしまう。一体全体、悲鳴を上げるなとはどういうことだ。

こういう時ならば、すぐにここから逃げなければならない。

相手に何をされるか分かったもんじゃない、防衛本能が働いても良いはずだ。

けれど、―それでもなぜか、私の足どころか指一本動いてくれなかった。

焦る私を嘲笑うかのように、彼女は口の端を吊り上げる。

温かさの欠片もない、そこにはとてつもない冷酷さしかない。

何より最も多く含んでいたのが、――【楽】。



相手は、【楽】しむ気満々らしい。










「 和清の天の空の下 淡き輝きをこの腕に

  桜花の滝の虹の下 淡き輝きをこの声に 」










その感情は全て、この波に乗って私に叩きつけられた。

彼女の言葉に合わせて、私の体内の奥の奥から【何か】が迫り上がってくるのが分かる。

しかし抗っているようだ、どうやらその【何か】は体から出たくはないらしい。

吐き気があるわけではないが、気分は悪くなっていく。

酔うような鈍痛が眉間に走って、思わず蹲る。

それでも一向に止まない、顔だけ彼女に向けて助けを求めた。

だがあっさりと、無視される。



私のことなどどうでもいい、と言わんばかりに彼女は最終宣告。










「 【強制帰還執行】 」










爆音。





鼓膜を叩き破らんばかりの衝撃波が発生、この家自体が吹っ飛ぶのではないかと思われた。

しかし私はそんなことを気にしてはいられない、その音と同時に全身が内側から爆発しそうになる。

もう喉の先まで来ていた【何か】が、一気に吹き出して空間へ融けて行く。

悲鳴なんて上げられるわけがない、喉が機能を失ってしまったようだ。

無理矢理その【何か】が彼女により引き剥がされたようで、痛みと熱と苦しみの三連弾を一身に受けてしまう。

先ほどの冷気の空間の方が、幾分かマシなような気さえした。

エネルギーをさらに奪われたような感覚に、意識すら手放そうとする―――――寸前。



意外にも、すぐに終わりはやってきた。



まるで燃料の無くなった乗り物のように、いきなり何もかもが止まってしまう。

引き際が素晴らしいほど呆気ないものだ。

いきなり呼吸が楽になって、目の前も明るくなる。

全てが抜けきったらしい、炭酸の抜けた飲料水の残りが私というわけか。

力もどうにか体に入って、でも立とうとするには辛かった。

さらに冷や汗が止まらない、精神的なもののせいだ。心臓が嫌に高ぶってうるさいので、上から片手で押さえつけた。





一体、何をされたというのだろう。





「とりあえず第一段階突破だ、おめでとうさん。さて、第二段階へ進むぞ」



その様子を察してくれたのかそうでないのか、彼女は私の腕を掴んで開けっ放しの窓へ連行する。

振り払おうにも力が強すぎて抵抗できない、仕方なくその流れに乗ることにする。

悪いようにはならないだろうと、一応窮地から救ってくれたことが心に働いてそんな風に思ってしまった。

だがここは二階だ、落ちるとさすがに危ない。今の状態の私の頭でもそれくらい判断出来る。

抵抗しない内にあっという間に窓際までやってきていた。

そして窓枠に身を乗り出させられた私は、そのまま彼女に背中を押さえつけられて固定させられる。



「!?ちょ、あぶっ、危な」

「黙ってろ、………―――ほれみろ、てめぇを絶望へ追いやった存在の仲間共だ」



彼女の顔を振り返る形で見ていた私だったが、その言葉に微かな呟きを伴って視線を元に戻した。

自分の部屋から外を見る、こんなこと小さいときから今まで何度もしてきたことだ。

いつも通りの夜空だし、何らおかしい所はない。

……ない、と祈りたかった。





「!?…何、これ」

 こく
「【酷】だ」





ユラユラと、漂う【黒い靄】が大量発生している。



毒ガスかと一瞬思ってしまったが、どうやら違うらしい。

【意志】を持っているのだろうか、グルグルと私の家を回って離れようとしない。

風が吹いているはずなのに、それに流されることもない。

明らかに自然のものではないような気がしてならなかった。

愕然としてしまっている私の後ろから、彼女が口を開く。





「この世に溢れかえる【負の念】で形成された、まぁ言ってみれば【悪魔とか妖怪とか化け物】みてぇなもんだな」





さも当然、と思わせる説明口調。

聖書や様々な絵巻物、物語に登場する、全般的に倒され役の存在。

ゲームや小説でも参考にされている、悪役。

そしてこれらは、現実世界と決して噛み合うことのないであろう、世界の住人達。

どうしてそんな存在達の名称が、彼女の口から飛び出してきたのだろう。

いきなり、こんなことを言われて混乱するなという方が無理。

いくら命の恩人の言葉であろうとも、仕方ないだろう。

私がそんなことを思っていることは、どうやら彼女も分かったらしい。



「疑うなら別にそれでもいいが、てめぇさっき実際に襲われたじゃねぇか」



それでも信じねぇのか?

彼女の目からそう言っているのが分かる、その時一気に映像が脳内で再生された。


急激な温度低下。凍っていく部屋。機能を無くしていく体。届かない――声。


思い出してまた鳥肌が立った。あんなこと、起こるはずがなかったのに。

明らかに現実的でない現象。だが言ってみれば、現実的でないことは、現実的でない存在でしか出来ないのだ。

納得してしまいそうだが、まだ理性がどこかで反発している。

ゆっくり息を整えて、質問した。



「あの冷気を創りだしたのが、これ?」

「ご名答、どうやら複数の酷が協力してたみてぇだな。最初にてめぇに入ろうとしていた奴はさっき消したが」

「入ろうと、…してた?」

「てめぇがさっき完全に【死にたい】って言ってたなら、てめぇの体は酷に【奪われ】てた」



どういう、ことなのか。

奪う奪われの問題がさっきあっただろうか、ちっとも検討がつかない。

それに、死にたい、と言えばどうして体を奪われることになるのだろう。

そういえば、あの時に聞こえていた声が酷とかいう奴のものだったのか。

確かに、死にたい、と私に言わせようとしていたようだったのだが。



「酷ってのは主に人間の体を欲しがる、【死にたい】と相手に言わせて体の所有権を強奪すんだよ」



所有権。

つまり、死にたいと言うことはもう生きていなくても良い、と判断されるわけか。

残される体を奪った所で何ら問題はない、と。

何て性格の最悪な存在なのだろう、しかしその言葉に従いかけたのは私。

あのまま彼女が来ていなければ、どうなっていたのだか。



「なっ、なっ何で、何で私が、……もし体を奪われたら、意識はどうなるんですか」

「食い殺されて終わりだ、まぁ酷の強さにもよるがな。精神力が上だったらそうそう意識までは食われねぇ」

「そんな…」

「だから良かっただろ?俺が来て」



笑われながらバシバシと背中を平手で叩かれて、窓枠に腹部が食い込んだ。

咽せ込んでしまった私は、声を上げて笑っている彼女へ真剣に問う。

そもそも最初にすべき質問だった、本来ならば。



「…何者、なんですか?あなたは」



喉をさすりつつ、…ありきたりな言い方しか思いつかない。

彼女は少し驚いたような顔をして―先ほどの笑いを一瞬で掻き消した。

次にそこにあったのは、妖艶。




                 ときやま さら      やみかげ
「俺か?――俺の名前は【朱鷺山沙羅】、職業は【闇影】」





一層、緑が深くなる。

呑まれかけてしまい、目が離せなくなった。

一体何のだろうか、この不思議さは。

なぜかその緑は、遙か果てまで続いている気がしてならない。



「酷を退治する能力を備えてる、酷へ対抗出来る存在の一人だ」



不意に、彼女――沙羅さんの手が窓から伸びた。

否、未だに蠢いているだけの酷達に対して、伸びたのだ。



「てめぇはどうやら酷を【呼び寄せる体質】らしい、これからも狙われ続けるぞ。たとえ今回を乗り切っても、な」



その掌から、発射されたのは小さなエメラルド。

球形をした緑の輝きが、黒き世界へ投下された。



「もしやられっぱなしが嫌だってんなら、いろいろ教えてやろうか?」



そして、閃光が迸る。

直視していたら両眼をやられていただろう、その前に沙羅さんが私の目を手で覆ってくれたのでそれは回避される。

それでも感じた光の刺激、彼女の手が離れたのを確認して恐る恐る瞼を開けた。

家を囲んでいた黒き靄は全て消え去っている、酷はもういなくなってしまった。

あまりに呆気なく、開いた口がふさがらない。









「やられる前にやり返せるだけの術を身につけるってのは、損にはならねぇだろ?」









踏み入れてしまったからには、もう戻れないのだろう。

また同じように襲われるというのなら、対抗できるようになりたい。

ただ襲われっぱなしで、やってられるか。


無言で首を縦に振って、しかと沙羅さんは受け取ってくれた。





「なら手始めだ、【一掃】すっぞ?」















その発言を合図に、先ほどよりも大量の靄が窓の外側に発生した。